写真とかカメラとかあなたにとって。

夜は雨が降るらしかったので、夕方電車でアルバイトに向かった。
帰りも電車で帰った。

人もまばらな各駅停車の電車の中でデジカメの画面を除くおじさんが近くに座っていた。
きっと今日撮ったものを見返しているんだなー。
電車とかかな、はたまたスナップの名手かもしれない。

もしかしたらなんてことない飲み会に持っていっただけで、結露してびしょびしょのグラスと中途半端につつかれた料理の乗った皿でごちゃごちゃのテーブルや、赤ら顔のおじさんたちが映ってるだけかも。

それでもやっぱり、その日撮ったものをその日の帰りには、なんなら撮ったすぐそばから見られるっていう体験は不思議だな。

iPhoneでもそういう体験はできるけど、カメラを使うという写真体験とは少し違うと思っているのです。だからデジカメで写真をとるってこととか写真を考えていくことってわたしにとっては不思議でというか、わたしにとっては違和感。

紙にプリントしても所詮はデジタルデータで出来上がった画像。まあそうやって考えようと思えばそういう面倒な筋の通った風のことも考えられるけど、普段写真を撮る中でそういうことは思わないし、デジタルであるかアナログもとい、フィルムかなんて心底どうでもいい。いい写真だと感じられるなら何で撮っていたっていいと思ってる。

ただ、写真をやる側として体に合ったものでやっていきたいし、デジタル化する社会についての疑問なんかわたしの写真においては邪念でしかない。もちろんそういう疑問があるからこそ面白いものや面白いと思う人や、だからそれを使って作ってる人だっている。
そういう人が作っている物をわたそが好きだと思うかとか、買うかと言われたから買わない!絶対に買わない!
よくわからない靄や、日常の写真的な断片なんか見たくない!

そういうものは常にわたしの心の中にはあるし、目にも見えてる。
そういうものにとらわれて日常や人生、命を狭めないように写真をやっているから!

だからやっぱり身体と体験を合わせて考えるとフィルムがあってる。
フィルムの写真を撮ってすぐみられたとしてもフィルムを使うと思うそれが本物であれば。チェキとかもやってみればいいかなと思うけどあれは画像として少し特殊すぎる。いわゆるフィルターかかってるっぽい。チェキによっておせんちになるのは嫌なのだ。撮ったその場で見られないのがいいみたいなことも言うけどそれも違う。それもいいのではなくてそうでないと写真の出来栄えとか写真について考えすぎてしまうから。やっぱりみられないと言うことがいいのではなくどうしてもそうじゃないとダメなんだ。製作者として速効性はもちろん大事なんだけどそれ以前にわたしにとっての写真は日常のことなのだ。表現とか趣味とかではない。アルバムを作ることが目標だ。孫にわたしの生きた証を見せなくてはいけない。

生きていることを忘れないようにいつでもだれかの味方でいることを言葉でも、写真でもやっていきたい。

みんな。みんな。お願いだよ。
今は絶対に忘れちゃうんだから。
忘れないことなんかないのよあの時のことは今ここにないの。

あの時の気持ちも、あの時の景色も、記憶も全部なくなってしまう。
いきていることくらい真面目にやりたい。


電車で見たあのおじさんは一体なんの写真を撮っていたのだろうか、写真によって認められることがあるのだろうか、それならばそれでいいと思う。



きっと大して変わりないのだろうから。

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